慶應義塾大学医学部 血液内科

Division of Hematology Department of Medicine Keio University School of Medicine

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教室紹介 教室の歴史

教室の沿革

食研1階隅にあった血液研究室 慶應義塾大学医学部血液内科は、昭和22年に済生会兵庫病院から就任された三方一澤教授の下で、長谷川弥人講師が血液学の泰斗、小宮悦造東京医科大学教授に血液学の指導を受けて発足した。当時の内科血液研究室は、食研(今の煉瓦館の場所にあった建物)の1階の隅にあり、当時の室員は伊藤宗元、五十嵐忠平、本間光夫、藤井孝明、松本坦らであった。その後、杉田浩、外山圭助、白戸英一、松木康夫、板津安彦、安藤泰彦、桜井秀也などが血液研究室を支えた。昭和46年に長谷川が血液・感染・リウマチ内科の教授に就任し、昭和52年の退任までこれらの内科領域を充実させることに尽力するとともに、我が国の臨床血液学の発展に多大な貢献をした。昭和49年からは、本間光夫が血液・感染・リウマチ内科の教授に就任し、その後血液内科は専任講師外山に委ねられ、造血幹細胞、血小板に関する基礎的研究が開始されるとともに、良性・悪性を問わず様々な血液疾患・血液異常を扱う診療科としてその活動を拡大していった。昭和61年、外山が東京医科大学第一内科教授に就任した後、血液内科の臨床・研究は一時期停滞することになるが、平成3年、当時の輸血センター講師池田康夫が、血液・感染・リウマチ内科教授に就任し血液研究室が大きく発展することになった。ここで、血液内科は診断学から治療学へと大きく舵を切り、池田のリーダーシップのもと臨床・研究・教育すべての領域において目覚ましい発展を遂げることとなった。平成20年5月の教授会で、血液・感染・リウマチ内科は、血液内科とリウマチ内科にそれぞれ独立することが承認され、平成21年5月より岡本真一郎が初代の血液内科教授に就任し、現在の血液内科を受け継ぐこととなった。

(1)長谷川弥人教授時代(昭和46年~昭和52年)

初代教授 長谷川 弥人 長谷川は昭和10年に慶應義塾大学医学部を卒業、昭和21年に同医学部専任講師となり、昭和32年にはロックフェラー財団のフェローとして、米国Duke大学に血液学研究のため留学した。我が国の血液学の臨床研究がとかく軽視される傾向にあったころに、危機感を持った東京医科大学教授小宮悦造が長谷川や東京大学中島章と相談し、昭和33年に「臨床血液懇話会」を発足させた。後にこれが日本臨床血液学会へと発展した。

昭和46年には長谷川は教授に就任し、研究室に一燈の公明が灯り、活気を帯びた研究室から多くの研究成果が発表されるようになった。教授長谷川は再生不良性貧血の病態解明、治療法の開発に積極的に取り組んだが、長谷川が初めて提唱した“非定型再生不良性貧血”という概念は、今では骨髄異形成症候群として認識される病態であることが明らかとなった。現在のように分子遺伝学的手法がない時代に、臨床医としての卓越したスキルをもって新たな疾患概念を予見した長谷川の先見性には、多くの血液内科医が感銘を受けた。長谷川は、昭和48年に第15回日本臨床血液学会総会、昭和51年に第38回に日本血液学会総会の会長を務めた。外山、藤山を中心とする当時の医局員の多大な貢献により血液学領域で最も大きい2つの学会総会を主催することができた。その後、長谷川は昭和60年に勲3等瑞宝章を受章した。長谷川は平成18年8月に逝去され、同年10月に内科学教室葬が執り行われた。

教授長谷川時代の血液研究室の集合写真

(2)外山圭助講師時代(昭和52年~昭和61年)

外山 圭助 専任講師 昭和52年、血液研究室を長年にわたり主催した長谷川教授が退官し、退官後は、本間光男が血液・感染・リウマチ内科の教授に就任した。血液内科(血液研究室)は専任講師外山圭助がリーダーシップをとることとなった。外山は厚生省特発性造血障害研究班そして文部省総合研究「造血幹細胞の臨床応用」の班員として、長谷川教授の造血障害の研究を引き継いだ。ここに海外留学を終えた当時輸血センター専任講師となった池田康夫、中央臨床検査部の専任講師となった渡邊清明、安藤康彦らが加わり、血小板機能に関する研究グループを立ち上げた。更にUCLAでin vitro colony assay法を学んで帰国した金子盾三らを中心として造血不全における造血幹細胞/前駆細胞動態の研究が開始され、血液診断学を中心とした研究が積極的に行われるようになった。臨床では種々の貧血、血小板凝固異常そして造血器腫瘍と多彩な血液疾患の診療に、研究室の全員が昼夜を忘れて取り組んでいた。しかし、診断をつけることができても、現在のように有効な治療薬そして支持療法がなく、白血病やリンパ腫などの造血器腫瘍の治癒はまったく望めない辛い時代でもあった。 昭和59年1月、村瀬忠、岡本真一郎を中心とした若手医師によって慢性骨髄性白血病(CML)移行期の患者に対して、2号棟1階の個室を改造した簡易無菌室で慶應義塾大学病院初の一卵性双生児からの同系骨髄移植が施行された。患者は正常造血を取り戻したが、2年後に急性転化でなくなった。病棟における治療環境は劣悪であり、かつ病名告知も行われていない時代ではあったが、治療学としての血液内科へ踏み出した最初の一歩であった。

講師外山時代の研究室風景 昭和61年、講師外山が東京医科大学第一内科教授に就任し、血液研究室から初の学外教授が誕生した。翌年には安藤康彦が東海大学臨床病理の教授に就任した。この後、血液内科の臨床・研究はリーダー不在の中で、一時期停滞することになるが、多くのスタッフが各々の専門分野での研鑽を積むために海外留学に旅立っていった。そして、その後の血液内科の飛躍の大きな基礎を築くこととなった。

初めての同系骨髄移植患者、ドナーと担当チーム
二号棟1階病棟前で

(3)池田康夫教授時代(平成3年~平成21年)

第2代 池田 康夫池田就任時の血液研究室集合写真 平成3年4月、血液内科に大きな転機が訪れた。輸血センター講師池田康夫が、血液・感染・リウマチ内科教授に就任した。これと前後してUCLAから木崎昌弘が、Scripps研究所から村田満が留学を終えて血液研究室へ帰室した。当時は、致死的な疾患であった急性前骨髄球性白血病の予後を劇的に改善したオールトランスレチノイン酸という経口薬が使用されるようになり、分子標的療法という新たな治療法が脚光を浴びるようになった時代であった。木崎は造血器腫瘍の分子病態の解明及びそれに立脚した新規治療の開発に関する研究を開始し、分子標的療法の分野をリードした。村田は血栓症に関連した遺伝子多型の研究をリードし、池田の専門分野である血小板・輸血医療とともに、血液学の主要な分野すべてを網羅した診療・研究体制が構築された。同時期には半田誠がScripps研究所から輸血センターへ、川合陽子がWisconsin Southeastern Blood Centerから中央臨床検査部へ留学を終えて所属し、側面から池田を中心とした血液内科の臨床研究を支援した。

平成4年、慶應関連施設共同研究グループKHOCSが発足、関連病院と一体となって造血器腫瘍患者の病態解明、治療法の検討を行う体制が作られた。

慶應医学賞受賞したDr.Druckerとの食事会 平成5年、米国Emory 大学とFred Hutchinson Cancer research Center (FHCRC)で臨床医として造血幹細胞移植の研鑽を積み、東京大学医科学研究所の移植チームに所属していた岡本真一郎が専任講師として加わった。岡本は平成6年、新棟9S病棟に無菌病棟が開設されると、同種および自家造血幹細胞移植を中心とした様々な造血器腫瘍の治療に積極的に取り組み、紹介患者数、移植症例数そして根治が得られた患者数は着実に増加した。岡本は血液内科病棟看護師や多くの職種に支えられ、それまでどの診療科においても行われていなかった造血器腫瘍患者への病名告知も開始した。この後、血液内科はリハビリテーション科、歯科・口腔外科、眼科、放射線科などの他診療科および多種職との連携を深め、理想的なチーム医療のモデルとして注目されるようになった。平成13年には、服部豊と岡本によって、我が国初の骨髄腫に対するサリドマイドによる治療を行うと同時に、厚生労働省班研究の中心となってTERMSという仕組みを構築し、その適正使用体制の構築に尽力した。その後、骨髄腫に対する新規薬剤を用いた治療は劇的に進歩を遂げることとなる。CMLの起死回生の治療薬として登場したグリベックは、従来の治療法を過去のものとした。グリベックを開発したBrian Drucker博士は、池田の血小板研究グループの共同研究者であり、血小板におけるtyrosine kinase阻害剤(TKI)の研究からグリベック開発に至った経緯がある。Drucker博士は平成19年に慶應医学賞を受賞した。

池田は副病院長(平成7~11年)、医学部長補佐(平成11~13年)、総合医科学研究センター長(平成13~17年)などの要職を歴任し、平成18年から20年までは医学部長を務め、慶應医学の発展に大きく貢献した。とりわけ、在任中に医学部将来構想委員会で議論された診療クラスターの概念は、後に建設される新病院棟の理念構築の礎を築いた。慶應医学の発展に大きく貢献した。平成19年には血液研究室の創始者長谷川がその創設・運営に全力を傾注した臨床血液学会ともう一つの日本血液学会の統合に尽力した結果、平成19年に国際的にも評価されうる新しい日本血液学会が誕生し、その初代の理事長に池田が就任した。慶應からは木崎と岡本が理事として参画し、慶應義塾の血液内科は日本の血液学の新たな流れをリードする重要な役割を担うこととなった。

池田は、平成9年に第20回日本造血細胞移植学会、平成11年に第6回血液代替物学会、平成13年に第49回日本輸血学会、平成14年に第45回日本臨床血液学会、平成15年に日本血栓止血学会など血液領域の主要な学会の総会長を務め、教室員と一丸となって主催した。さらに平成18年には第103回日本内科学会総会、そして平成23年には国際血栓止血学会総会の会頭を務めた。平成23年には国際内科学会理事長を務め、内科学の発展に貢献した。国際学会では講師岡本も日本骨髄移植推進財団(JMDP)と連携し、平成13年5月に第5回世界骨髄バンク機構(WMDA) 総会を三田キャンパスで主催した。

池田の時代には、血液内科に在籍していた医師達が慶應義塾そして他大学の講座の教授に就任した。平成9年には河上裕が慶應義塾大学医学部先端医科学研究所教授、平成16年に安藤潔が東海大学血液内科教授、平成17年に宮地勇人が東海大学臨床検査部門の教授、村田満が慶應義塾大学医学部臨床検査医学の教授、平成19年に木崎昌弘が埼玉医科大学総合医療センター血液内科教授、平成21年に半田が輸血・細胞療法センター教授に就任した。

平成21年池田最終講義集合写真

(4)岡本真一郎教授時代(平成21年~令和2年)

血液内科初代教授 岡本 真一郎 平成20年5月の教授会で、血液・リウマチ内科がそれぞれ独立し、血液内科とリウマチ内科となることが承認された。池田退官後、平成21年5月より初代の血液内科教授に岡本真一郎が就任した。

岡本はFor the patients, For the team, Fair play, Fighting spiritの4つのFを血液内科の基本理念とし、患者さんのbenefitを第一に考えるチーム医療を展開できる血液内科を目指してleadershipを発揮してきた。

岡本のleadershipは慶應だけにとどまらず、平成22年3月には日本造血細胞移植学会(JSHCT) 理事長、そして平成23年10月にはアジア太平洋造血細胞移植学会(APBMT) 理事長に就任し、日本における造血幹細胞移植の発展、そしてアジア諸国における造血幹細胞移植の普及と連携に携わっっている。平成26年3月には‘Optimizing hematopoietic cell transplantation’をテーマとして日本造血幹細胞移植学会総会を沖縄で開催し、高齢化する日本社会における将来の造血幹細胞移植のあり方に焦点を当てた。また、翌平成27年10月にもアジア造血細胞移植学会年次総会を沖縄で開催し、アジア諸国における移植医療の質の担保とtransplant outcome registryの設立、そしてemerging countriesに対する移植医療普及の教育と支援について検討した。岡本は日本血液学会理事、日本骨髄バンク(JMDP)および日本臍帯血バンク専門委員を長期につとめ、移植医療の支援体制の確立についても尽力した。

岡本の時代にも多くの血液内科に在席していた医師達が慶應義塾および他大学の血液内科に関連する講座の教授に就任した。平成20年に講師服部が慶應義塾大学薬学部・薬学研究科病態生理学教授に、平成22年に森茂久が埼玉医科大学医学教育センター医学部教授に、平成23年に高山信之が杏林大学医学部第二内科教授に、平成24年に武藤章弘が星薬科大学薬学部病態生理学教授に、平成26年には講師横山が東海大学八王寺医療センター血液腫瘍内科教授に、同年に尾崎勝俊が日本医科大学多摩永山病院血液内科臨床教授に、講師宮川が埼玉医科大学病院総合診療内科〔血液〕教授に就任、平成27年には准教授中島が横浜市立大学医学部血液・リウマチ・感染症内科学主任教授に、同年に得平道英が埼玉医科大学総合医療センター血液内科教授に、平成28年に石田明が埼玉医科大学国際医療センター輸血・細胞移植科教授に、そして田野崎隆二が慶應義塾大学医学部輸血・細胞療法部の教授に就任した。

血液内科スタッフとOBとの集合写真(2019年血液内科忘年会)

 

(5)片岡圭亮教授時代(令和2年~現在)

血液内科2代目教授 片岡 圭亮令和2年3月の岡本退官後、9月より2代目の血液内科教授に片岡圭亮が就任、国立がん研究センター研究所より着任した。片岡は、最新の治療エビデンスを導入しつつ、その実現に必要なゲノム医療の導入や臨床研究・試験の推進を開始した。また、専門としてきたデータ駆動型研究を臨床・基礎・TR研究のあらゆる面に導入し、自らエビデンスを創出すること目指している。